花山稲荷だより「花の山」

京都山科の花山稲荷神社のブログです。季節の花や山科のこと、日々の出来事などつづります。

2011年06月 | ARCHIVE-SELECT | 2011年08月

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「仕切りなおし」を呈してからどれだけ間隔が空いただろうか。依然として筆は進まない。訪問してくださる方々には、大変申し訳なく思う毎日ではある。

さて、「惑」という字。その代表が今の私だとつくづく思う。神主として鎮魂(帰神)が足りていないのだろうなと先日思った。神主の辛いところ(と、言ってしまえば他愛もないが、同時に、神主失格の烙印を自ら押すことにもなろう)は自身が悩んでいても、お祓いをしなければならぬところか。こんな心でハテサテお祓いなんぞ出来るものか・・・?と不安がいつも付きまとう。

つい先日、神前でお勤めをしている時の事。そのとき挙げた祝詞は自らの御霊を清め補強する、という内容。それを読み進めるに従って自分自身の御霊の空虚感をはっきりと感じ取った。文字には文字魂、言葉には言霊があって何かを語りかけてくる。この祝詞には「我は天地万象と同体同根」「祖我一如」などの言葉がそこかしこに鏤められていて、自我を排し、自我なき我の心境になったとき鎮魂は為されるのだと書いてある。如何に我あるは我のみの功績ぞ、と傲慢になっていたかが浮き彫りとなった。そう感じ取ったときの空虚感とは、言葉では到底表せない

作意無く善行を為してこそ善行であると思う。明き清き誠の心を文章にして神々に捧げるのが祝詞だとしたら、上手に間違うことなく祝詞を読もうと努力している間(←いま、この辺りに居ます)は本当に目先の文章を読んでいるだけで、そこにある文字や言葉は、まだその威力を発しない。つまり神々の波動と一致しない、ということ。
この日、威力を発していないことに気づいた私。ますます、内向的になっていくような気もしないでもない。
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| 神主雑感 | 11:45 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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