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花山稲荷だより「花の山」

京都山科の花山稲荷神社のブログです。季節の花や山科のこと、日々の出来事などつづります。

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瘡蓋剥がせ!

こんばんは。花山稲荷の神主です。

 さて。怪我をしたとき、その傷が大して深くもなく擦り傷程度なら、上から赤チン、あ、いやいや現代ではマキロンをシュシュッとすれば傷口は消毒されますし、化膿する心配も然程ないです。しかし、傷が深い場合、あるいはちょっとした傷でも不潔にしたまま放っておくと化膿します。化膿すれば、上から消毒液をナンボ吹き付けても無駄遣いに過ぎず、瘡蓋に護られた膿は「シメシメ、うへへ~」とばかりに体を蝕みます。

 今回も前回の続なのですが、あの手の事件は後を絶ちません。先日の尖閣諸島の東京都の買取なども関係ないようなことですが、無理やり引き合いに出した上で表現すると、今の日本は「内憂外患」。
大雑把に言えば「内憂」はこの国のソフト面、言うなれば「人」。国は人なり、人は国なり。
「外患」はハード面。簡単に言えば領土や領海の問題。勝手にむこうからやってくる場合もあるし、招いてしまう場合もある。「内憂外患」の国語辞典的意味は別として、つまり内も外も心配事だらけ!外患については又別項にて書いてみようと思います。
 さて、先ずはこの国のソフトの面々、目先の事ばかり考えていませんか?

「お金も快楽もあの世には持って行けない。だから、生きてるうちに好き放題やるんだ!」

という人は多く居ると思います。それが人間の本性だとも思います。でも、何か違う気がしませんか?勿論、好き放題やって自分の尻を自分で拭ける人ならかまいませんけど・・・。
 社会が発展し、人と人が否が応でも接しなければならなくなると、必ず共通のルールを作らざるを得ません。それが法律だと私は捉えています。
 そして、舶来の思想かもしれませんが、今の日本が民主主義である以上「自由・平等・博愛・義務・区別・厳罰」と言った六つの理念は実践されなければなりません。ここで「内憂」というこの国の内なる病気の原因が見えてくるように思います。何故なら、6つのうちの前の3つばかりを強調しすぎ、後ろの3つが殆ど機能していないか、に見えるからです。

自由を謳歌したいならそれに伴う義務を必ず負わなければならないし、
平等であっても区別は必ずついて回るし、
無償の愛を受ける権利もあるがその愛を裏切れば、そこに残るのは厳罰だと思うのです。

 神道では、民主主義という言葉はあまりしっくり来ないかもしれません。神々の営みを第六感で捉えたものが神道だから、言葉にはしにくいのです。しかし、神々に祈りを捧げる時にはなにかしら購い(あがない=代償をはらうこと=たとえばお賽銭であったりご祈祷料、物忌み(参篭などかな?)。禁酒禁煙、禁欲なども含まれる。かも・・・)をしますし、神主にも序列があって身分を弁えないといけない場面も勿論あります。また目に見えない力に生かされていると言う、いわば神様からの愛を受け戴いている訳ですから、自分も他人も命を無駄にするような真似はしてはいけません。

 今回の亀岡の元暴走族現無職長期無免許無謀運転少年が起こした事件は、まさに六つの理念のうち前の1つだけを追って辿り着いた結果と言える。本当に神に仕える身分なら、その少年の魂の本当の芯の部分を磨きだすような役目を担い、そうなるよう働かなければなりませんが、私は未熟なのかそういう気になりませんし、なれません。
 自由を謳歌した結果、人を殺した。無罪放免では済まないことくらい小学生でもわかるだろうし、自動車の運転が出来るくらいの頭脳の持ち主なら大抵誰でも判るものです。
 若者が将来を背負っていることくらい、私にも解ります。だからと言って、被害者が泣き寝入りをすることはたとえ他人であっても腑に落ちませんし、少年法という瘡蓋に護られた少年の行いや口先だけの反省に被害者が踏みにじられるようなことになるのも許せません。亡くなった児童にもお母さんもおなかの中の赤ちゃんにも将来はあったのですから・・・。

 道路が悪いわけでもなく、自動車が悪いわけでもなく、悪いのは元暴走族現無職長期無免許無謀運転少年。これは火を見るより明らかで原点の原点といっても過言ではありません。願わくば、誰が悪いのか。何が悪いのか。少しでもそのベールが剥がれ落ち、被害者が納得のいく展開になれと乞祈願う。

最後に、お亡くなりになられた方々のご冥福を心よりお祈りいたします。神主 拝

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